2015年1月10日土曜日

再帰性の徹底(Giddens)について

さて、前回エントリーは社会学が近代を取り扱うときに、近代性(modernity)の理論的前提と考えることについて述べました。脱埋め込みというのがkey ideaでした。今回はもうひとつ超重要概念として「再帰性(reflexivity)」について説明していきます。参考書は、前回挙げたAnthony Giddensの本。「再帰性」は、ギデンズが近代における社会のあり方の特徴(とくに後期近代を記述するときに用いたコトバです。社会学以前のコトバの意味としては、reflex-ibilityだから、反射-可能性とか反省-可能性とか。

ここでの社会学者の想定はシンプルです。前近代の伝統社会は変化しない(冷たい社会)。近代社会はつねに変化する(熱い社会)。常に変化する、とは単に前回エントリーの「直線的な時間観でもって未来を設計の対象とし、不可逆的に進歩・発展していく」という近代的社会観や、工業化後の科学技術革新と経済の成長スピードの加速、といった意味合いだけではない。社会的意味の世界でも変化は常で、その変化のあり方がとても特徴的です。

再帰的な振る舞いについて、私はひとまず「あえて(自覚的に)~するという態度」のように言い換えます。つまり、自分の振る舞いを客観するかのような視点をもって振る舞うこと。その当然の結果として個人や社会の素朴でない複雑なあり方を生みます。それは近代の制度がつねに諸個人の行為を自己チェックし、社会の新たな意味を見いだし、反省と改善を迫るという点と関係している。そしてこの再帰性が「つねによりよい合理的な方向への変化」を方向付けるとは限らない、というのがこの概念のもうひとつのポイント。

通常の生活者は、自分が空気のように浸っている自社会や自文化については説明できない。そもそも文化は「実践する」ものであって「説明する」ものではないからです。たとえば、われわれは葬式では白黒幕、入学式では紅白幕を会場に張る。かりに日本文化のフィールドワークしているアメリカの大学院生に「なぜそうするのか、白黒や紅白の象徴的な意味は何か」と尋ねられたところで、それらの意味や歴史的ないわれについて説明することはふつう(調べものをしない限り)できません。ただし、我々は紅白幕と白黒幕を取り違えること(お葬式に紅白幕を張ったり・・・)は決してない。文化は「実践する」ものであって「説明する」ものではない、と私が言うのはそういうことで、これが自社会や自文化に対する素朴な態度です(「伝統」に対する素朴な態度、と言ったほうが正確かもしれない)。

ところが社会の再帰性が増してくると、自分のふるまいに対する自覚的な態度がそこここに見られるようになってきます。「説明する」ということではないかもしれませんが、どこかに自社会や自文化、ないし社会のなかでのカテゴリカルな自分について、すでにある説明を意識しながら行為するような態度が出てくる。誰も、素朴ではありえない。

  • いずれの文化においても、社会の実際の営みは、その営みのなかに絶えず供給されていく新たな発見によって日々手直しされていく。しかし、慣習の修正が、物質的世界への介入も含め、原則として人間生活のすべての側面に徹底して及んでいくようになるのは、近代という時代がはじめてである。[ギデンズ 1993; p.56]

つまり社会が再帰的に変化するというのは前近代の伝統社会でも部分的にみられた。しかし、近代社会の特徴はそれとの決定的な程度のちがいにあり、再帰性は徹底しているとギデンズは言う。そしてこの徹底した再帰性は、われわれの社会をつねに安定的に変化させるとも限らない、と。

こうした社会の再帰性にいちばん貢献しているのが、じつは社会調査です。ギデンズも言うように、社会調査と現実社会との関係は、「社会学・社会科学は〈社会〉を対象にした活動でもあり、かつ〈社会過程〉を構成する一部でもある」という複雑な入れ子状のものです。社会学は〈社会〉を観察しますが、社会調査という社会学の活動もその〈社会〉のなかに含まれ、社会調査の結果はその〈社会〉に影響を与えます。
たとえば、結婚しようとするとき、ただ情熱に突き動かされてダダッと結婚する人もいるでしょうが、多くの人は自分の年齢・収入・ステイタス(学生・勤め人・バイトetc.)で結婚するとは現在の社会においてどうなのか、ということを気にします。各種社会調査は、2010年代の日本で結婚がいったいどのようにおこなわれているのかについて、統計情報を提供するのです(こちらは→厚労省統計)。TVなどのメディアにおいて、社会学者をはじめとした有識者がコメントする内容の元ネタに、これらの社会統計は使われます。それを視聴するわれわれは、いまの社会のいまの自分のステイタスで結婚することはどうなのかをあらかじめ知り、するか・しないかを決めていく。

こうした決定は、ただちにその〈社会〉の現実の一部を構成しますから、〈社会〉が先か、統計が先か、よく分からなくなりますね(ニワトリとタマゴの関係)。少なくとも、〈社会〉の観察結果が統計だという「〈社会〉→統計」の一方向的な関係を素朴に想定すべきでなく、「社会〉→統計→〈社会〉→…」という図式で理解すべきでしょう。再帰的関係とはまさにそういうことです。

かくして再帰的運動をもった変化が続いていくのが近代社会。以前も触れたように、統計の歴史は近代国家の歴史とともにあると言っても過言でない。近代においてはこうした再帰性を生むさまざまな知識が存在する。社会活動および自然との物質的関係の大半の側面が、新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすいのです。

社会における知識や社会観、自己観が再帰的でしかあり得ないという状況は、人間や社会を安定させるというよりはより動的に複雑に、そして不安にさせる。この側面が、社会学では注目されています。

  • モダニティは再帰的に適用される知識のなかで、またそうした知識をとおして形成されていくが、知識を確信性と同一視するのは、誤りであることが判明していった。われわれが方向感覚を失って生きる世界は、再帰的に適用された知識によって徹底的に形成されているが、同時にそうした知識の構成要素がいずれも修正を受けないと決して断言できない世界なのである。[ギデンズ 1993; pp.56-57]

前回の講義では、近代的な理性のあり方の前提のひとつには、時計時間があると述べました。時計時間の前提ゆえに、われわれは計画し、未来を設計の対象にするのだと。そしてそれは、中長期的な不確実性を減じていくという態度なのだと。

たとえば工業化も農業の近代化もとっくに果たした先進国の人間からみれば、アフリカ地域農村は、天水農耕(灌漑はなく雨に依存した農業)はじめ、いろいろと不確実性にさらされた「伝統的」世界にみえます。開発援助はそうした社会的状況から不確実性(に起因する貧困)を除去していこうとする活動ということになります。一方の、知識も技術も発達した先進国の後期近代は、その意味での不確実性は比較すればずっと低減しているはずなのですが、この再帰性の徹底ゆえに、なんとなくの不確かさの感覚が常にあるのです。

【文献】
A.=ギデンズ(松尾精文・小幡正敏 訳)『近代とはいかなる時代か?モダニティの帰結』而立書房、1993年(原著は1990年)